これ、誤審でしょう。栃ノ心、かわいそう。。。
丸山穂高さんの「適応障害」について私が考えること。
加藤典洋さんが亡くなった。早すぎる。。本当にお世話になって、文学賞のパーティーや、養老孟司さんの会でも、いつも興味深いお話を伺って。シャイで、鋭くて、愛が深くて、本質を見つめていらして。。。辛すぎる。まだまだいろいろ教えていただきたかったのに。信じられない。安らかに。。
ゆたぼんさんに会いました 10歳、不登校でユーチューバーをされている、ゆたぼんさん(中村逞珂さん) @yu
学校に行かなくても、学ぶことは無限にできる。社会性も、学校で身につく社会性がすべてじゃない。そもそも同じ年齢の子どもたちだけの「社会」は「社会」じゃない。中村逞珂さん、応援します。 RT「不登校は不幸じゃない」 10歳のユーチュー…
日本文化の一つのあり方として、本質的な部分は不可視にするということがある。たとえば、御開帳が限られている秘仏が一歩進んで、「絶対秘仏」になると、一切人の目に触れない。三種の神器はそのような存在で、天皇陛下ですら、それを目にしない。
「平成」から「令和」にかわる一連の儀式が続いている。年号もそうだが、昨日は「三種の神器」のうち、剣と勾玉が登場した。あの包の中に何が入っているのか、それはどこに由来するのは、そのような質問はしないことになっている。
元号や、三種の神器のような、日本の文化の本質が、現代のニュースとして報じられることで、さまざまな感想を書かれる人がいる。元号について、グローバル化の時代にそぐわないとか、日本だけのことなどと言う人もいるけれども、だからこそ、むしろグローバル化の時代に価値があるのだと思う。
グローバル化は、世界がすべて同じ色に染まることではない。むしろ、人やモノ、情報の行き来が密になることで、かえって、各文化の独自性が興味をもたれ、焦点が当たる。元号や三種の神器のような存在は、世界の他のどこにもないからこそ、日本の独自性として価値がある。
もちろん、グローバル化に接続する工夫は必要である。免許証などの公文書は、元号以外にも西暦で表記するのが良いだろう。国境を超えていく現代の情報ネットワークに適応するためにできることはすべてやった方が良い。その上で、元号や三種の神器のような存在は大切に守っていけばいい。