「トロッコ問題」のトリビアルな矛盾には気づくのに、「みんな…
「トロッコ問題」のトリビアルな矛盾には気づくのに、「みんないっしょにやさしく人に親切にしましょう」といったゆるふわの中の矛盾には気づかないということが日本の教育の現状における致命的な脆弱性、欠落と関連していて、今回のニュースはそのような構造を露呈してしまっていると私は考える。
「みんなでいっしょに」「人にやさしく親切に」「他人の気持ちがわかる人」のようなゆるふわの道徳的スローガンの方が、よほどコミュニティや不良設定問題や評価関数といった側面において、突き詰めれば「トロッコ問題」よりも深刻な相反があって、鋭い子はむしろそっちに「不安」になるのではないか。
いずれにせよ、新聞社がトロッコ問題の学校現場への導入についてあのような記事を書く背景には、一般に、日本の学校において不確実性が伴うような問題において理性に基づく批判的思考を養うことが忌避されていることと無縁ではないと思う。あの記事のスタンスはナイーブで、洞察が足りなかった。
トロッコ問題は、私たちがふだん何気なく考えている無意識の構造の前提を明らかにすることですぐれた思考のきっかけになる。功利主義や評価関数、倫理の文脈依存性などについて、カントや神経科学を参照して考える上で、これほど適切な問題はない。
トロッコ問題で子どもたちが「不安」になったということだけれども、もともと、マイケル・サンデル教授がジャステイスでやって有名になったように、「理性のゆらぎ」を起こすのがトロッコ問題の本質で、適切な教育的配慮があれば大いに結構なことだと思う。
トロッコ問題は、たとえば自動運転のアルゴリズムを考える際に欠かせない視点であって、今後の社会を生きていく子どもたちが考えるのは大いに結構なことである。教科書にはおそらく出ていないのだろうから、それを補助教材で扱うことは推奨されこそすれ学校側が謝罪することではない。
小中学校でトロッコ問題の授業をしたというニュース、2つの意味で驚いた。一つはそんなに先端的なことをやっているのか、大いに結構という驚きで、もうひとつは、保護者から抗議を受けて、調べてみたら子どもが不安を感じていたから、謝罪したというニュースに驚いた。
「選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙い」の設例としては余りにも極端過ぎるのでは。。 そもそも「トロッコ問題」は他に助けを求められないケース設定では? 教育目的が説明不能…
トロッコ問題は、自動運転などの領域での倫理判断を問う学術的に本質的な問題設定で、子どもたちが考えるのは有意義であって、謝罪することではない。むしろ、もっと曖昧な「道徳」の問題設定の方が疑問。 RT 授業で「トロッコ問題」 岩国の小…